「自分が跳ね返ってくる」ということ

カタヤマです。22歳です。

 

 2018年3月~7月ごろまで、就職や進学などを考える時間がありました。俗に言う「就活」「進路決定」です。周りの友人含め、みんながこの期間は辛かったと言っていますし、今まさに辛い期間である同年代の人も多いと思います。

 例に漏れず、僕も辛い期間がありました。これを「自分が跳ね返ってくる」現象として考えてみます。

 

・自分が何者になるか考えるということ 1

 進路を考えるということは自分が何者になるか考えるということであると僕は考えます。と同時に、これは自分が何者であるか考えるということにも繋がります。22歳の若造からすると、これは人生で初の試みであり、まったく行ったことのない活動であると言えます。自分が一体何をしたくて社会に参画していくのか、はたまた何を学びたくて進学をするのかを考えるという行為は、ダイレクトに「自分が跳ね返ってくる」行為であると言えます。確固たる意思を持ってして就活/進学に臨んでいるつもりであっても、跳ね返ってきた自分の像の輪郭はあまりにぼやけていることがままあります。モロに自分はこのタイプで、意思がグラグラに揺らぎました。意思を固めているのは無数にある可能性に襲われて思考するのを本能的に避けただけで、その度合いが大きいほど跳ね返ってきた自分はぼけぼけになって見えなくなるのでした。そこであらためて何がしたいか、何ができるかを深く潜って考えてみます。

 

・何かを作るときに考えること

 自分は総合大学の芸術系学部に在籍しています。日常的に何か作っています。しかしその中で、真摯に自分で考えて作ったものがあるか、と考えると自信を持ってあるとは言えそうにもありません。軽薄だったと思うところもあります。広く”人々”を鑑賞の対象とし、そのために作るのであればそれは「デザイン」で「芸術」ではないのではないか。「芸術」をやるなら単に面白いから/作りたいからではダメで、誰のためにそれを作って、何と為すのかを考えなければいけない。その部分が欠如したモノを作っていたように思います。この考えをつい先月に藤幡正樹先生に教えていただきました。「芸術」をやるということは、自分もしくは自分にかなり近い特定の人物のためにやると。それはモロに「自分が跳ね返ってくる」ということではないかと考えたりしました。卒業制作に生かしたいです。

 

・自分が何者になるか考えるということ 2

 さて、自分が何者になるか考えるということから逃げずにやってみても答えらしい答えなんて出ませんでした。それは当たり前なことなのですがそう気付くまで少し時間がかかりまして、そうしてるうちに自分で結局は何にもないことを証明してしまったような気になって、輪郭はぼやけたまま宙にうかんでしまって、もうどうすればいいのやら分かんなくなって、就活も進学も手につかず、ご飯の味はあんまりしないし、お腹はずっと調子悪いし、という堂々巡りが起こりました。そうしてるうちに、なにもこれは自分だけではないのかもしれないと思い、自分の尊敬している大人たちも四十すぎて惑いっぱなしなんじゃないの??とか思い、当たり前なのかもしれないと着地(してないのだが)することができて、ハードだった「自分が跳ね返ってくる」現象の中でなんとなく自分の座標がわかったつもりになったのでした。

 

 これはかなり良いトレーニングになった気がしています。勿論、こんなことを考えずに就活や進学している人も大勢います。その人たちより少し得したなと勝手にニヤニヤしておく、ということにしましょう。